「もしもし、落し物ですよ」
肩を揺すられて、私はぼんやり目を開けた。
温厚そうな顔の老婆が目を細めて覗き込んでいる。すぐに電車内だと言う事を思い出し、私は姿勢を正した。
「あっ、どうもどうも」
差し出された封筒を受け取り、まだ眠気ではっきりしない頭のまま、それをポケットに仕舞い込んだ。
「いえいえ」
老婆は笑い顔のまま背を向け、歩いていく。
そしてすぐに、これは私の物ではないことに気がついた。私の持ち物はバッグ一つなのだ。
「あの」
と声をだしても、老婆は耳が遠いのか気づかなかった。次の瞬間、電車は駅に止まって、空いていた車内にどっと乗客が押し寄せてきた。
立ち上がって老婆を探したが、乗客にまぎれて見当たらない。降りたのかもしれなかった。
「なんなんだ」
私の席は立ち上がった瞬間に取られている。少しいらいらした。
思い返せば、あの近辺に座っていたのは私だけだ。誰か他の人が通りすがりに封筒を落としたのだろう。いらぬ親切心と言うわけだ。
終点の駅で私は降りると、ゴミ箱へ封筒を放り込んだ。
どうせ持ち主のわからないものだ。駅員に渡すのもうっとうしい。
駅の構内では、何を急いでいるのかわからないがみんな早足だ。
私もここへ来てから早足になった。もっとゆっくり歩きたいのだが、流されるように歩いているうち、自然と早足になる。
意にそぐわないことだ。
そう、まったく意にそぐわない。
あの女もそうだ。ただの遊びだとお互いわかっていたはずなのに、妊娠した途端手の平を返しやがる。
意にそぐわないことは大嫌いだ。
ほとんど無理やり堕ろさせて、その結果女は妊娠できない体になった。ぐずぐずしている方が悪い、と思ってみても、やはりこちらにも良心はある。入院費から全部負担し、相当の金を積んで示談した。女は受け取らなかったが、女の親が受け取ったから同じだ。
あれからだ。私はすぐいらつくようになった。仕事のストレスを女遊びで解消していたのに、遊ぼうと言う気にならないのだ。ストレスばかりが溜まっていく。
「もしもし」
背中を叩かれて、私は立ち止まった。なんだろう、と振り向き、ぎょっとする。
先ほどの老婆が細い目で見上げていた。
「これ、落としましたよ」
差し出したのは捨てたはずの封筒だ。唖然とした。
「あ、はぁ」
ため息のような相槌しか打てない。老婆はしっかり私の手に封筒を持たせると、
「お気をつけなすってね」
と言い残して歩き去った。
私は捨てたのだ。蓋付きのゴミ箱の中に、きっちりと。
落としたんじゃない、捨てたんだ。なんでそれを拾い上げて持ってくる。
私は突然に激昂した。
ふざけている。嫌がらせだ。そうじゃなきゃ狂ってる。
これは私のじゃない!
大声でそう叫びたかった。だがあいにく私には社会人としての理性がある。
虫のような人ごみも、路上に転がったホームレスも、床に散らばる黒いガムの染みも、全部が私の神経を逆撫でに刺激した。
今まで味わったことのないほどひどい気分だった。なぜかあの女の顔が脳裏にちらついている。余計にいらいらした。
競歩のような速度で家まで歩き、マンションのドアを閉める。
部屋に入ってネクタイを解き、バッグをソファの上に投げ捨てて、すぐ冷蔵庫を開けた。缶ビールだけはいつも冷やしてある。
一気に半分ほど飲み干して、ようやく少し冷静になった。
封筒はバッグの上に横たわっている。捨てたらまた老婆がやってきそうな気がしたのだ。途中にゴミ箱がなかっただけだったかもしれない。
「ったく……」
毒づきながら拾い上げる。
中身はどうやら、手紙などではないようだった。もぞもぞと糸のような束が膨らんでいる。封筒は投函するためではなく、入れ物としてちょうどよかったからのようだ。
中を見てから捨てようと思った。缶ビールをテーブルの上に置き、その横で口を開いて逆さまにする。
「わっ」
ぼた、と落ちてきたのは、黒い髪の毛だった。髪の毛の束。それだけだ。
「なんだ、気持ち悪い」
腕を触ると、鳥肌を立てている。落し物だと言われた封筒に入っていたのは長い髪の毛だったのだ。
空恐ろしいような、不気味な感覚が背筋を寒くした。少し混乱した私は、まずは落ち着いて状況を整理しようと缶ビールを手に取った。
その瞬間電話が鳴る。
受話器を取った私は、何度か聞いたことのある声を聞いた。
あの女の母親だ。
母親は私に、女が森で自殺したと告げた。娘の死を説明するにしては、淡々としていた。
『一つ聞きたい事があるの』
「なんですか」
私の声はかすれていた。
『通報される前に、誰かが髪の毛を切り取って行ったみたいなの。もしかしてあなた、それ持ってない? なんだかそんな気がするのよ』
受話器が手から滑り落ちた。
私は呆けた表情でテーブルの上の髪の束を見つめた。
それは私が、綺麗だよとよく褒めていた部分だった。
肩を揺すられて、私はぼんやり目を開けた。
温厚そうな顔の老婆が目を細めて覗き込んでいる。すぐに電車内だと言う事を思い出し、私は姿勢を正した。
「あっ、どうもどうも」
差し出された封筒を受け取り、まだ眠気ではっきりしない頭のまま、それをポケットに仕舞い込んだ。
「いえいえ」
老婆は笑い顔のまま背を向け、歩いていく。
そしてすぐに、これは私の物ではないことに気がついた。私の持ち物はバッグ一つなのだ。
「あの」
と声をだしても、老婆は耳が遠いのか気づかなかった。次の瞬間、電車は駅に止まって、空いていた車内にどっと乗客が押し寄せてきた。
立ち上がって老婆を探したが、乗客にまぎれて見当たらない。降りたのかもしれなかった。
「なんなんだ」
私の席は立ち上がった瞬間に取られている。少しいらいらした。
思い返せば、あの近辺に座っていたのは私だけだ。誰か他の人が通りすがりに封筒を落としたのだろう。いらぬ親切心と言うわけだ。
終点の駅で私は降りると、ゴミ箱へ封筒を放り込んだ。
どうせ持ち主のわからないものだ。駅員に渡すのもうっとうしい。
駅の構内では、何を急いでいるのかわからないがみんな早足だ。
私もここへ来てから早足になった。もっとゆっくり歩きたいのだが、流されるように歩いているうち、自然と早足になる。
意にそぐわないことだ。
そう、まったく意にそぐわない。
あの女もそうだ。ただの遊びだとお互いわかっていたはずなのに、妊娠した途端手の平を返しやがる。
意にそぐわないことは大嫌いだ。
ほとんど無理やり堕ろさせて、その結果女は妊娠できない体になった。ぐずぐずしている方が悪い、と思ってみても、やはりこちらにも良心はある。入院費から全部負担し、相当の金を積んで示談した。女は受け取らなかったが、女の親が受け取ったから同じだ。
あれからだ。私はすぐいらつくようになった。仕事のストレスを女遊びで解消していたのに、遊ぼうと言う気にならないのだ。ストレスばかりが溜まっていく。
「もしもし」
背中を叩かれて、私は立ち止まった。なんだろう、と振り向き、ぎょっとする。
先ほどの老婆が細い目で見上げていた。
「これ、落としましたよ」
差し出したのは捨てたはずの封筒だ。唖然とした。
「あ、はぁ」
ため息のような相槌しか打てない。老婆はしっかり私の手に封筒を持たせると、
「お気をつけなすってね」
と言い残して歩き去った。
私は捨てたのだ。蓋付きのゴミ箱の中に、きっちりと。
落としたんじゃない、捨てたんだ。なんでそれを拾い上げて持ってくる。
私は突然に激昂した。
ふざけている。嫌がらせだ。そうじゃなきゃ狂ってる。
これは私のじゃない!
大声でそう叫びたかった。だがあいにく私には社会人としての理性がある。
虫のような人ごみも、路上に転がったホームレスも、床に散らばる黒いガムの染みも、全部が私の神経を逆撫でに刺激した。
今まで味わったことのないほどひどい気分だった。なぜかあの女の顔が脳裏にちらついている。余計にいらいらした。
競歩のような速度で家まで歩き、マンションのドアを閉める。
部屋に入ってネクタイを解き、バッグをソファの上に投げ捨てて、すぐ冷蔵庫を開けた。缶ビールだけはいつも冷やしてある。
一気に半分ほど飲み干して、ようやく少し冷静になった。
封筒はバッグの上に横たわっている。捨てたらまた老婆がやってきそうな気がしたのだ。途中にゴミ箱がなかっただけだったかもしれない。
「ったく……」
毒づきながら拾い上げる。
中身はどうやら、手紙などではないようだった。もぞもぞと糸のような束が膨らんでいる。封筒は投函するためではなく、入れ物としてちょうどよかったからのようだ。
中を見てから捨てようと思った。缶ビールをテーブルの上に置き、その横で口を開いて逆さまにする。
「わっ」
ぼた、と落ちてきたのは、黒い髪の毛だった。髪の毛の束。それだけだ。
「なんだ、気持ち悪い」
腕を触ると、鳥肌を立てている。落し物だと言われた封筒に入っていたのは長い髪の毛だったのだ。
空恐ろしいような、不気味な感覚が背筋を寒くした。少し混乱した私は、まずは落ち着いて状況を整理しようと缶ビールを手に取った。
その瞬間電話が鳴る。
受話器を取った私は、何度か聞いたことのある声を聞いた。
あの女の母親だ。
母親は私に、女が森で自殺したと告げた。娘の死を説明するにしては、淡々としていた。
『一つ聞きたい事があるの』
「なんですか」
私の声はかすれていた。
『通報される前に、誰かが髪の毛を切り取って行ったみたいなの。もしかしてあなた、それ持ってない? なんだかそんな気がするのよ』
受話器が手から滑り落ちた。
私は呆けた表情でテーブルの上の髪の束を見つめた。
それは私が、綺麗だよとよく褒めていた部分だった。
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