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おわり双書2 ラブ・イズ・オーバー
私はどうしてこんなところにいるんだろう。
 ガラス張りの狭い部屋に閉じ込められ、昼も夜もなく立ち尽くしている。
 ガラスの向こうではせわしなく大勢の人が行き来していた。
 たまに立ち止まって、私のことを見ていく人もいるが、誰も話しかけてくれたりはしない。
 それが少し寂しかったが、人ごみを眺めているだけで概ね退屈はしなかったし、そのうち一つ楽しみも出来た。
 夕方の帰宅ラッシュ時間に、必ず一人の男が私を眺めていくのだ。
 じっと立ち止まって、眉を寄せて悩ましげな表情の時もあれば、わずかに微笑んでいる時もあった。
 私は男の姿を見るのが待ち遠しくなった。なぜだか、男のことをずっと前から知っている気がしてきていた。
 これが恋なのかもしれない。
 今日は雨だった。
 土砂降りではないが、強い雨だ。みんな身構えるように傘を差して、私の前を素通りしていく。誰も私を見てくれないから、雨は嫌いだ。
 いつのまにか一人の女性が私の前にいた。
 黒い傘を差して、枯れた色の服を着ている。長い黒髪とよく似合った、綺麗な人だった。
「あなたもそうなのね」
 女性は哀しそうに私を見上げていた。私に話しかけているのだと気づくのにずいぶんかかった。
「早く思い出して」
 何を言っているのだろう。私は……ここに来る以前……。
 思い出せない。とても不安になった。
 傘が一つ増えた。
 女性の隣に立ったのは、あの男だった。私は不安を忘れて嬉しくなった。
「あなたも気になるんですか」
 男は女性にそう言った。女性は黙っている。
「いえ、おかしな話ですが――なんだか行方不明になった恋人によく似ているんですよ。……ははっ、感傷かもしれませんね」
 頭の中に電撃が走った。
 そうだ、私は……。
 私には、長く一緒に過ごした恋人がいた。
 だがいつからか、彼の存在が重荷になった自分がいた。彼は優しくて大事にしてくれたが、それだけだ。刺激のなくなった関係は、私にとって退屈の繰り返しだった。
 そこに現れたのが、プロデューサーを名乗るあいつだった。話題もお金も豊富なあいつに、私はすぐ取り込まれた。愛人の一人でも構わない、私が欲しかったのはこう言う刺激だったんだと――。
「ごめんなさい」
 黒い傘を差した女性が、目を閉じたまま言った。私が伝えたい、その隣の男へ伝えたい言葉だった。私は言った。女性の口を借りて。
「あなたを真剣に愛したらよかった。あなたを詰まらない人間だとばかり思っていた。でも違った。愛することをやめていた、私のせいだった……」
「絵美?」
 男は呆然としている。女性は目を開けた。
「……絵美さんは死にました。ねえ、気づいて。あなたは――」
 女性は私を見上げ、ハンドバックから大き目の手鏡を取り出した。
「あなたはマネキンなのよ」
 鏡に映る私の姿。それはショーウィンドウの中に立つ、ただのマネキン――。
 女性は泣いている。男は呆然としたまま女性と私を見比べている。
 私は……かすれていく意識の中、男へ手を伸ばし、崩れ落ちた。

                                 ――おわり

おわり双書1「ナイト・イズ・オーバー」
 馬鹿げている。まったく。
 化粧で塗りつぶされた、忌々しい顔がいつまでも脳裏にこびりついている。おれは眉根を寄せたまま局を後にした。
 濃い化粧とぎらぎらに飾った千早をまとった女。名は春日と言う。知る人ぞ知る、本物の霊能者――そう紹介された。確かにそう思わせるに足る雰囲気を漂わせた二十代前半の若い女だった。
「あなたは呪われている」
 おれを見るなり、春日はそう言った。
「たくさんの人形が、あなたを呪っている――」
 人形だと? ふざけてる。おれは地面を蹴りつけた。
 あいつは調べているんだ。おれについて。
誰も知らないはずのことを言い当て、相手の信用を得る。信用を得てから出鱈目の霊能を始める。心霊番組をいくつも担当してきたおれの目は誤魔化せない。典型的なエセ霊能者のパターンだ。
 それでも番組は作れる。むしろそういった連中の方がいいとも言えた。こちらの思惑通りに動かしやすいし、相手もまた動いてくれる。春日はその意味でやりやすい相手だった。
 夏の特番のワンコーナー。打ち合わせと軽い撮影はすぐに終わった。あとは下の連中に任せ、おれはそそくさと仕事を切り上げたのだった。
 このイラついた気持ちを静めてくれるのは誰だろう。涼子か。玉枝か。
「真田さん」
 呼ばれて、はっと立ち止まった。バス停で見知らぬ女がおれを見ている。枯れた色のワンピースをまとった、清楚な美女だ。
「失礼ですが、どなたでしたかね」
 仕事柄付き合いは広く浅い。残念ながらおれは人の顔を覚えるのが苦手だった。相手はくすくす笑う。
「いやだ。春日ですよ」
「えっ」
 思わずまじまじと相手を見る。ナチュラルメイクの春日は、そこらの清純派モデル顔負けのすがすがしい美しさを放っていた。薄紅の唇が開く。
「先ほどはすいませんでした。いきなり失礼なことを言って」
「いえ、慣れてますよ」
 本当は慣れてなんかいない。おれは春日の美しさに引き込まれていた。
「あら、バスが――」
 駅までの路線バスが近づいてきた。そこでふと気づく。
「局の連中、タクシーも呼ばなかったんですか? 私で良ければお送りしますよ」
 最後のは咄嗟の付け足しだ。
「構いませんか? 本当は少し期待して声をかけたんです」
 春日は媚びる目をした。
 おれは内心でほくそ笑む――これはいい。なんとしても口説かねば。

 ***

 家に連れ込むのは簡単だった。春日が呪いの元を見たいと言い出したのだ。驚いたことにこの女、本当に呪いがかけられていると考えているようだった。こちらとしては都合がいい。
「すごい家にお住みなんですね」
 我が家を見上げ唖然としている。今まで連れてきたどの女もこんな反応だった。
「古い家でね。外観は祖父がここで医院をやっていた時のままです。丈夫な作りなんで、中だけリフォームして住んでますよ」
 昭和初期の西洋建築だ。やたら頑丈なコンクリ作りは、外から寄せ付けず、中から出さず、堅牢なイメージを抱かせる。
「夕食はお済み?」
「あ、食堂で軽く――気を使わないでください」
「じゃあ一杯やりましょう」
 リビングに入り、おれはワインセラーから特製のワインを持ち出した。
 背筋をピンと伸ばして椅子に座る春日は、同年代の女に比べると、やはり独特の不可思議な雰囲気があった。乱れなく艶光る長い黒髪。すっと伸びた鼻梁。舞い落ちた桜花のような唇――なぜこれを隠すように、悪趣味なけばけばしい化粧などしたのか。
どうしても手に入れたい。おれはもう恋に落ちていた。
「人形とおっしゃいましたね。確かに人形を集めるのは趣味にしています」
 こちらから切り出した。春日はグラスのワインを口に運ぶ。
「見せていただけませんか」
 多少硬い声。もしかして、本当におれのことを調べているんじゃないだろうか――そんな予感が沸いた。
 だがもう春日は手中にある。にこやかに笑い、おれは席を立った。
「いいでしょう。こちらへ」
 キッチンの奥へ誘う。床下の止め具を外すと、階段が現れた。
「ワイン倉、食料庫、そして時代が時代でしたから、防空壕にもなっています。湿度も温度も適当で、保存するにはちょうどいい」
 中はかなりの広さがある。天井も高い。春日が降りたのを見計らって、私は入り口の扉を閉めた。
「湿気を嫌うものですから」
 そう言い訳しておく。
 リフォームの際、蛍光灯は豊富に設置しておいた。中は明るい。春日は真っ青な顔で、地下倉の奥を見つめている。
「あれが私のコレクションですよ」
 耳元で囁く。吐息がかかったのを感じて、春日がびくりと震えた。
 スポットライトに照らされて、マネキンが五体、壁に立てかけられている。とてもリアルなできばえだ。これを作る職人に、おれは感謝と感動を禁じえない。
「とても……強い呪いが……」
「あなたは知っていますね?」
 かまをかけてみる。春日はうなずいた。
「同じものを、とある場所で見ました。深い恨みと苦しみに囚われたマネキンで――」
「この期に及んで霊能者気取りか!」
 おれは春日の肩を掴んで、こちらを向かせた。折れそうなほど細く、非力な肩だ。怯えに見開いた目で、おれを見上げている。
「知ってるんだろ? あのマネキンの中には人が入っている。あれは全部、おれの女だ。お前も今からそうしてやる」
 服の上から胸を掴んだ。肩と違って豊満な質量が手の平に伝わる。乱暴に揉みしだくと、春日は苦痛の呻きを漏らした。
「警察には言ったのか? 答えろ」
「い……言ってません。ただ、呪いを解きたくて――」
「まだ言うのか!」
 頬を打ち据える。よろけた春日は積んであった木箱をひっくり返しながら倒れる。
 嗜虐心を煽る女だ。おれは見下すように立って言った。
「どうやってあの人形を作るか教えてやろうか。中身が空っぽの、半分に割れたマネキンの中へ、生きたまま入れるのさ。そして一晩かけて、丁寧に接着する。その道を極めた職人ってのは、どれも偉大なものでな。あのマネキンは多少なら動けるように細工してもらっているんだ」
 春日の黒髪が波のように広がっている。あれを切り取って、マネキンの髪にしよう。
「生きて動く人形だ。これが至高の人形愛だよ。問題は一ヶ月ほどで衰弱して死んでしまうことだが……そうなればまた次だ。先日涼子と玉枝が死んでしまって、さびしかったところさ」
「いったい……今までに何人」
 春日が顔を上げた。
「ここにいるのは五人だが、全部で十六人になるか。飽きた奴は裏から市場に流している。こういうリアルな体型のマネキンは需要が増えてきていてな。お前が見たのもその一つだろう」
「なんてことを……これじゃ、呪いが解けない」
 春日の瞳にあるのは、恐れや怯えではなかった。深い憐憫。おれは無性にむしゃくしゃした。
 髪を掴んで引きずり起こし、マネキンの前まで連れて行く。無抵抗。
「そろそろ薬が効いてきたか。祖父は色んな薬品を地下へ残してくれていてな。もう逃げられない」
「うっ」
 無理やり上を向かせると、春日は美貌を歪めて呻いた。それでもおれに目を向ける。憐れみの目を。こいつは、なにを――まさか、おれを憐れんでいるのか?
「もう呪いは止められない。ごめんなさい……」
 がしゃ、と音が鳴った。おれは春日の髪を離してマネキンの方を振り返った。
 涼子がいましめを外し、台から立ち上がった。
「涼子!? まだ生きていたのか」
 がしゃ、次は玉枝だった。この時点でおかしいと気づいた。中身が死ぬと、穴を塞いで防腐乾燥の処置をする。生きているはずがないのだ。
「お前、一体何をした――」
 春日を怒鳴りつける。しかし視線の先に、美貌の主はいない。
 がしゃ、と次のマネキンが降り立った。三ヶ月前に作った静香だ。半年前の和美も動き始めた。
 おれは恐怖を覚えた。どういうからくりを使ったか知らないが、うまい演出だ。演出家にでもなればいい。
「あな憎し、我が背の君よ……」
 歌うような声。春日の物だ。どこにいるのかわからない。どこからか響いてくる。おれはぞっとした。
「汝、絞り殺さん」
 最後のマネキンが台に降りた。顔を上げたマネキンと、おれは目が合った。
「由梨……」
 それは妻の人形だった。
 由梨はしっかりとおれを見据えると、すさまじい速度で駆け寄ってきた。無理だ。走れるようになんか作っていない。
 両手が輪になって、おれの首へ食い込む。足が宙に浮いた。
 すぐ目の前が真っ赤になって、おれは自分の頸がぼきりと鳴るのを――。

***

「彼はわかっているのかしら」
 春日は首が千切れかかった男と、力を失って倒れたマネキンたちを見下ろしている。
「そんな防腐処理なんかで、腐敗を止められるわけない。マネキンに宿った彼女たちの魂が、人形を人形たらしめていたことを――」
 そこまで言うと、長髪の美女は、顔を覆って泣き崩れた。

                             ――おわり
ホラー小説「つらら」
 つららにはね、冬の精霊が宿っているの。
 日を受けて落ちると消える、はかない冬の精霊。
 ねえ、兄ちゃん。あの大きなつららは兄ちゃんみたいだね。
その隣にある小さいのは、私のつららだよ――。
「江美」
 布団をはねのけて、僕は飛び起きた。まわりは暗い。夢と気づいた瞬間、どっと汗が吹き出てきた。
 なんで、江美の夢なんか。
 動悸を抑えながら、額の汗をぬぐう。
 統合失調症の妹が死んだのは、十数年も前のことだ。思い出すことも少なくなってずいぶん経つ。
「江美ってだれ」
 僕の隣で、冷めた声が言った。それで僕は沙織が泊まりに来ていることを思い出す。カーテン越しの外灯の光が、沙織の眼をぬらぬらと映し出した。僕は江美の大きな瞳を思い出して、視線を外した。
「……妹。なんか、夢に見たみたいだ」
「……そっか」
 疑惑の声は同情のものに変わった。僕ははねのけた布団を引き寄せて、沙織の肩にかける。ベッドから降りて、冷蔵庫を開けた。
 江美は事故死だった。
 屋根から落ちてきたつららに当たって死んだのだ。苦しむ間もなく、即死したそうだ。
 ミネラルウォーターのペットボトルを口飲みしながら、薄暗い部屋を見回す。
 今、僕は幸せだ。
 せまいワンルームの賃貸だけど、自分のことは全部自分でできる。地元から一緒に出てきた沙織ともうまくいっている。
 でも――いつも僕には、穴のようなものが開いていた。
 そのことを考えまいとして、江美のことは頭の中から追いやってきた。
 江美が死んだと聞いた日、僕はほっとしたのだった。これで自由になれる、ショックを受けた反面、自分のどこかがはっきりそう言ったのを僕は聞いた。
「なに考えてるの」
 沙織がじっと僕を見ている。僕はペットボトルをもう一度傾け、飲み干してから言った。
「もうずいぶん経つんだなぁって」
「そうだね。ちょうど、十六年」
「十五年だよ。命日は明日だ」
「時計見て。もう日付変わってる」
「……本当だ。沙織、よく覚えてるね」
 時計から沙織に視線を移すと、なぜか目をそらせた。何か隠し事があると、沙織はすぐ態度に出る。僕は微笑んで訊ねた。
「どうしたの? 言いたいことがあるなら、言った方がいいよ」
「聞きたい?」
「うん」
 僕はベッドサイドに腰掛ける。沙織は布団で胸元を押さえ、上半身を起こした。夜の光が僕へ向けられる眼を、ねっとりと照らし出している。僕はなぜかまた江美を思い出して、ペットボトルをもてあそぶ風を装って視線をはずした。
「……隠してたの。今まで。江美ちゃんが死んだのは私のせい」
「……知ってるよ」
「え?」
「あんな人気のない、公民館の裏手になんで江美がいたのか。沙織とケンカしたせいなんだろ? 君の大事にしてた……ノートか本に落書きをして、大喧嘩になった」
「そう。そう……だけど」
「沙織は悪くないよ。江美は何日もまえから、薬を飲んでなかったんだ。飲んだふりをして捨ててた。だから急性の症状が出て、君にひどいことをした。その後少し我に返ったんだろうね。落ち着きたくて人のいないところへ行ったんだと思う。みんな探してたから」
 江美の病気はひどかった。僕がものごころつくころには、もう症状が出ていた。
 薬を飲んでいる限り安定はしていたけど、よく飲むのを拒否した。副作用も多かったからだ。そんな時は幻覚や被害妄想に囚われて、周りに迷惑をかけた。ただ僕にだけはいつも素直だった。
 僕が江美の世話を全般に引き受けるようになったのは当然だろう。周囲はお世辞にも理解があったとは言いがたく、それは江美にも僕にもつらいことだった。僕の人生はおそらく、大半を江美のために使わねばならないだろう――兄としての責務と諦観めいた決意を感じ始めた矢先の出来事だった。
 江美がいれば沙織とこうしてここにいられることもなかった。ただ、僕の中にある穴のようなものが、さびしく隙間風を吹かせている。そう感じる。
「続きがあるの」
 自分の考えに入り込んでしまっていた僕は、沙織の言葉で引き戻された。沙織は僕の手の中にあるペットボトルをじっと見つめていた。
「なに?」
「その話には続きが。私、この話をするために今日ここへ来たの」
「……聞くよ」
「公民館の裏に呼び出したのは私だった。仲直りしようと思って。二人でいっしょにみんなのところへ戻ろうって言ったの。でも江美ちゃんはヘラヘラ笑っているだけだった。あの笑い方が私は大嫌いだった。馬鹿にされてるって、頭に血が上ったの。上を見たら、屋根からつららが伸びてた」
「……沙織」
「公民館の屋上へ登って、下を見下ろしたら江美ちゃんはまだそこにいたわ。私に勝ったと思ったのか、両手を広げてこっちを見てた。私は」
「いいよ。もういい」
「……まだ、終わりじゃないわ。それからよ。私の記憶に欠落が出来始めたの。どんどんその間隔が長くなって、医者に行った。解離性同一性障害と診断された」
「なんだい、それは」
「いわゆる多重人格。強い精神的ショックで発生するの。私のケースはかなり特殊で、私の中に江美ちゃんの人格が出来た。ただそれなら、あなたにもばれてるはずなんだけど、江美ちゃんの人格は私の人格を模倣したの。私の人格を表面に被って、周りにばれないようにした」
「ちょっと待って沙織。それって、今も?」
 にわかに信じがたい僕は、頭を整理する時間を設けようと質問した。沙織は暗い目でペットボトルを越えたどこかを見つめながら、首を横に振った。
「もう直ってる。数年前に収まったわ。でも……」
 急にその目がこちらへ向く。僕はなんとか受け止めた。まぶたが瞬くと、涙のしずくが転がり落ちた。
「でも、あなたに愛の告白した記憶は私にはない。あなたはあまり、昔のことを話す人じゃないからやってこれたけど――あなたと一緒にいた私は、ほとんどが江美ちゃんなの」
「…………」
「江美ちゃんはあなたが大好きだった。私はこう思ってるの。江美ちゃんの魂が私にとりついて、果たせなかった想いを遂げている。あなたとずっといたい、それがあの子の願いだった」
「やめてくれ!」
 僕は怒鳴った。自分で思っているよりも大きな声だった。
 握り締めたペットボトルが醜く形を変えている。どうしていいのかわからなかった。
「……ごめんなさい。でも誤解しないように言っておくと、殺意まではなかった。小さいつららを落として驚かせてやるつもりだったの。でもその隣に大きなつららがあって、そっちが落ちてしまった」
「……なぜ、今日なんだ?」
「命日だからよ。十六年目の。……時効が成立する」
 沙織は顔を覆って泣き崩れた。
「私、怖くて怖くて。罪に問われないってわかってからも安心できなくて、ずっと子供のころからトラウマになってた。この日が来るまであなたにも話す勇気が持てなかった。大切な妹を。ごめんなさい。ごめん――」
「いいんだ。僕も、君になら話せる」
 沙織の肩を抱き寄せる。落ち着くのを待って、言葉を続けた。
「江美のことは、重荷だったんだ。僕の自由のほとんどが江美のせいで潰された。僕は優しい兄貴で通ってたかもしれないけど、それは僕に勇気がなかったからだ。本当は江美のことなんか放り出して、自由になりたかった」
 沙織の肩の震えが止まった。僕はしっかりと抱きしめる。
「僕に自由をくれたのは、沙織。君なんだ。不謹慎だってわかってるけど、今振り返ってそう思う。だから泣かないで」
「――それ、本当?」
「ああ」
「本当なの、兄ちゃん」
 愕然として肩を突き放す。両目をいっぱいに見開いた沙織が、僕を見つめた。
 いや、僕はわかった。わかってしまった。
 ここにいるのは――江美だ。
「ずっと、だましてたの? 江美が重荷だったの?」
 僕は動けない。だらだらと汗だけが流れ落ち、干上がってしまった喉がはりついて声も出せない。
「それなら、あたし、消えてあげる。兄ちゃんの前から永遠に。……さよなら」
「江美!」
 抱きとめようとした体を突き放され、僕はベッドから転げ落ちた。ベランダの窓が開く音――。
「やめろ、江美! その体はお前のじゃない!」
「今、あたしもやっとわかったんだ」
 柵から身を乗り出して、江美が僕を振り返った。外灯の光は表情を陰に落として、僕には見えない。ただ体の輪郭だけが、あわく白く光っていた。
「あたしを殺したのは、兄ちゃんのつららだったんだね。死んで欲しかったんでしょう」
 つららにはね、冬の精霊が宿っているの。
 日を受けて落ちると消える、はかない冬の精霊。
 ねえ、兄ちゃん。あの大きなつららは兄ちゃんみたいだね。
その隣にある小さいのは、私のつららだよ――。
「江美!」
 柵の上からその姿は消えていた。江美の残した吐息のもやが、ゆっくりと夜空に溶けていく。階下から、潰れるような音が響き渡った。
 僕には全てわかった。
 あの時、江美は公民館のつららを見上げて、僕と話しているつもりだったんだ。沙織のことなんか忘れていた。僕のつららは――僕の本当の望みそのままに、江美を殺した。
 ふらふらとベランダへ出て、上を見上げると、小さなつららが出来ていた。
 僕は満面の笑みで笑った。
「江美のつららだ」
 あれが本当に江美なのか、多重人格の産物なのか、それはわからない。
 どちらでも同じことなのだ。
 僕は背伸びして手の中へ移すと、喉元へ切っ先を押し当てて、柵を乗り越えた。

                                ――おわり


忘れ物
 友人の笹木とこうやって飲むのは一体いつぶりだろうか。一時は飲むどころか命さえ危うかったのが嘘の様だ。それもこれも、手術を担当してくれたこの男のおかげである。
 私はいつにもまして饒舌だった。酒もよく進む。
「いやあ、また教鞭を取れるまで回復するとは思わなかったよ。研究の方も前より意欲が沸いてきた。次の論文は注目しておいてくれたまえ」
「それは、よかったな」
 しかし笹木の方はあまりしゃべらず、顔色もよくないようだ。禿げた頭もいつもより毛が少ないように見える。
「どうした? 医者の不摂生なんて言わないでくれよ」
「いや、そういうわけじゃないんだが……ついさっき、忘れ物をしたことに気づいてね」
「なんだ、そんなことか」
 私はにやりと笑う。死線をくぐったおかげか、私にはものに動じない精神が培われていた。
「君、小さなことに囚われちゃいけない。人間本当に重要なのは、生きるか死ぬか。その二つだけだよ」
 テーブル越しに手を伸ばして肩を叩く。笹木は縮こまった体をさらに丸めた。
「いやしかしね、僕が忘れたのは君に関する物なんだよ」
「だったらよけいに気にしないでよろしい。私は君のおかげで生き延びた。君が何を気にする必要があると言うのか」
「そ、そうか……? 忘れた物を言っても、君は怒ったりしないか?」
「しないしない」
「本当か?」
 しつこく訊く笹木に、私はいらだちを覚え始めた。
 機嫌がよくて忘れていたが、笹木は昔からこうやって人の顔色ばかり伺う、卑屈な人物だった。私は焼酎を煽ると言った。
「わかった。天地神明にかけて怒らないと約束するから、言ってみてくれ。君もそれで楽になるだろう」
「ああよかった。じゃあ怒らずに聞いてくれよ」
 笹木の顔に安堵の微笑が広がる。禿げ頭を掻きながら言った。
「実は君の腹の中に、メスを一本置き忘れたんだ」
「なんだって――」
 私は驚いて立ち上がった。
 その瞬間――。

待ち合わせ
 僕はね、ずっと待ってるんですよ。
 え、誰をかって?
 そんなことどうだっていいじゃないですか。僕ががここで人を待ってる。そこへあなたが来る。路傍へ腰掛ける。僕が話しかける――これだけのお話ですよ。
 ええ。この時期霧が深くなるんです。特にこの時間は。夕刻に霧なんて珍しいでしょ?
 夕刻はねぇあなた、昔から逢魔が刻と申しましてね。この世ならぬものと出会うそうです。
 はは、脅かすなって? だって黄昏時って言うでしょう。元は誰そ彼はと言うのが訛ってたそがれと言うようになったそうですよ。だんだん暗くなって相手の顔が見えなくなる。あれは誰だ――そう、そこですよ。誰だかわからないその人影は、本当に人なのだろうか。
 ああ、すいません。脅かしすぎましたね。どうか座って。この霧でうろついたら危ない。僕も話し相手がいなくなってはつまらない。
 ――え? もういいじゃないですか、僕が誰を待っていようと。
 そりゃ待ち合わせの約束もしていませんがね、待つって言うのは元来そんなものでしょう。約束があるのに待っていたら、早く来すぎたか相手が遅かったか、もうこれは別の現象だ。
 ね、待つって言うのは、そう言うことなんじゃないですか。
 どうしました、そわそわして。
 あなたも待つ身だ。この霧が晴れるのをね。もっとどっしり構えましょうよ。
 うん? ああ、わかりました。他言はしません、どうぞおっしゃってください。
 十年前――ちょうどこの辺りで霧に紛れて人を殺した。身包み剥いで死体は打ち捨てた――と?
 なるほど、そわそわしなさるわけだ。この霧の向こうから、逢魔が刻に死人がやってくる。確かにそりゃ恐ろしいですな。
 いやはや僕も待った甲斐があった。そうきょろきょろしなさんな。今、僕の居場所を教えますから。
 ほら、あなたの腰掛けている石の裏。草むらに白いのが見えるでしょう。
 そう、僕は十年前お前に殺されたんだよ。
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