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朱ノ青 その5


 しばらくは平穏な日々が続いた。
 世俗から切り離された奥の院の生活は、やっぱり世俗とはかけ離れていて、ツバキの暮らしてきた厳格な家の暮らしとはまったく違うものだった。
 まず時間にゆるい。油断すると陽が高くなるまで寝てしまう。
 そして仕事や習い事がない。なにをしろ、というのがまったくない。
 それでも庫裏やお社の掃除、着物の洗濯、食事の用意など、生活のことはしなくてはならないが、それだけのことだ。
 教養のため、勉学に手習いにと一刻を惜しんでいた日々が嘘のようだった。
 アゲハとは仲良く過ごすことができていた。
 食料の備蓄は充分とはいえ、新鮮なものは自分で摂るしかない。
 河原で魚を釣ったり、山で山菜を摂ったり。
 そういったことを教えてもらうのはたのしかった。
 山育ちで慣れているのだろうが、朱の浴衣を蝶のようにひらひらとさせながら岩を渡るアゲハの姿は、やはり男のものだ。
 そう。
 ただひとつツバキを悩ませているものがある。
 ここでの生活は意外なほどすんなりと受け入れることが出来たし、山に閉じ込められた環境だというのに、むしろ本家よりも開放的だとすら思う。
 だが、こんな近くに男がいる生活ははじめてだった。
 本家の当主たる父は厳格で、娘といえど歳がいけば他人のように敬って接しなくてはならなかった。
 いわゆる箱入り娘で育てられたツバキは、周囲を女だけで固められて生活してきたのだ。
 相手が兄とはいえ、男と過ごす経験はなかった。
 いや、兄としっかり認識できたならいい。
 いきなり引き合わされて、これが兄さんだといわれただけなら、まだそれも出来ただろう。距離を取って接することもできる。
 だがアゲハは女にしか見えないのだ。
 だからふと、気を許してしまう。
 それでいて時おり、ひどく男らしい所作を垣間見せるのだ。
 それが油断したツバキの心の隙間を縫って入り、息が詰まりそうなほどドキリとさせるのだった。
 自分がアゲハのことを、兄としてよりも男として見ているのではないか――。
 小川にかかる小さな橋を渡る時、伸ばされた手の平の大きさにどぎまぎとしながら、ツバキは戸惑いを深めていた。



『器はここの生活に慣れたか?』
 暗い場所――。
 部屋を淡く照らすのは油を差した行灯の光。
 ひどく心もとないそれが浮かび上がらせているのは、ユキの顔だった。
 誰かに対してかしずいているのか、身をかがめたまま受け答えする。
「はい。順調に存じます」
『忌々しい仏教徒どものいう縁とやらも、本当にあるのかもしれぬな。壊れた巫女、殺されるはずの忌み子、封じられた妖――この山奥でひっそりと暮らしていくだけのはずが』
「私の望みは今も昔も同じ。御身のご復活でございます」
『…………』
 部屋のどこからか響いていた声は黙り、変わりに青白い鬼火が跪いたユキの前に集まり始めた。
 そのような怪異にも眉ひとつ動かさず、ユキは頭を垂れたまま身じろぎしない。
 やがて鬼火は人型を作り、それは徐々に美しい銀色の髪をした女性を形作った。
 紅白の千早をまとったその姿は本物の巫女のように見える。
 しかし銀髪を割って生えるのは人のものではない大きな獣の耳。
 切れ長の目は金色の瞳と暗い瞳孔を輝かせている。猫族のような縦長のそれだった。
 そして千早の裾からは、長く毛の生えた尻尾が垂れている。
 鬼火に支えられるようにして宙に浮かんだその女性は、むしろいたわるような調子で声なき声を部屋に響かせた。
『汝が望むなら、妾もそれを望もう。愛おしいユキよ。……気が変わらぬのなら、次の段階へ進むが?』
「はい」
『では、これより妾の魂をふたつに分ける。ひとつは雄の玉に。もうひとつは雌の玉に。それぞれ、アゲハと器に飲ませるがよい』
「はい」
『そこより先は汝といえど手出しは厳禁。あのふたりが真に望むことがそれであれば、自ずと事は成就されよう……』
「…………」
『……後悔はないな?』
「……あります」
『ほう?』
「本来であれば器の役目、この私が受けるはず。それが悔しくてならないのです」
『子を為すことの出来ぬ身体にされたのは、汝の責任ではなかろう。それに敵は討った』
「……はい。申し訳ありません、つまらぬことを」
『よい。それでははじめよう……』
 女性の姿は燃えるように青白い炎で覆いつくされていく。
 その炎は揺らめきながら二分割され、片方は青く、片方は赤く燃え盛った。
 ふたつの炎はゆっくりと凝縮されていき、そして押し込められるように縮まって消えると、二個の玉となって床を転がった。
 青と赤、そのふたつの玉を大事に広い、ユキは無表情に立ち上がった。

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