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-chapter7- 三人の目指す先
 ディラックは室長の元を辞すると、そのまま本部の病棟に足を向けた。
 特別病棟の一つ――完全に隔離された個室へ立ち入る。
 連絡はすでに行き渡っているのか、医師や看護師の姿もない。
 真っ白い病室の中、真っ白い服に包まれて、真っ白いベッドの上に寝ているのは、14,5歳ほどの少女だった。
 灰色とも茶色とも付かない、不思議な色の髪をしている。シーツからのぞく首筋も、歳相応の健康な張りを保っていて、今すぐにでも元気に走り出しそうなのに――。
 眠っている。
ディラックは独白のように呟く。
「白、白、白――こいつが発見されたのも、真っ白い雪の中だったそうだな」
「……そうね」
 答えは窓際からあった。
 白い室内に赤い髪が映える。クラだ。
 窓枠にもたれたまま、外を見つめながら続ける。
「ちょうど、八十禍津日神が大気圏で分解した日――この子は成層圏からある山の頂へ降ってきた。彼女が、例の女の子かどうかは未確認だけど……」
「間違いないさ」
 ディラックはベッドサイドのプレートに目をやる。『ルーン』と刻まれる文字を見つめ、皮肉気に口元を歪める。
「そう言う運命だったって知ったら、あいつはなんて言うかな。それとも再会を喜ぶか」
「なんのこと?」
「なんでもねえよ。それより――じき、だぞ」
「ええ」
 ディラックもクラと同じ方向に目を向ける。
 晴れ渡っていた空は――急激に禍々しい紫の雲を広げ始めていた。


 2


 その日、街が、大地が、大気が、人々が、地の底の声を聞いた。
『災禍』
 それは地底宇宙(インナーユニバース)から黄泉比良坂(ワームホール)を通り、特異点(ブラックホール)を越え、黄泉のものが地上へ溢れること。
 黄泉の邪神は黄泉比良坂を渡り、中つ国(地球)へと現れる。
 一度災禍が起きれば、あらゆる因果律は歪み、病気災厄死亡率の増加など、人類は危機的な状況へ追い込まれるのだ。


 その声が響き渡ったとき、サクヤは自宅二階の自室でちょうど制服に着替え終わったところだった。
 5年前の災禍――その時にも轟いた、黄泉の咆哮。
 空気が軋みながら伝達する、身の毛もよだつ音。
 血の気が引いたのも一瞬、サクヤは部屋を飛び出すと階段を駆け下り、最後の一段でけつまづいて、派手に廊下へ転がった。
「あたたたた」
 打った右ひざを押さえて引きずりながら、居間へ駆け込む。ユマリがテーブルに乗ったお菓子をつまみながら、テレビを見ていた。
「だいじょうぶ?」
 こちらを見もせず、お菓子をつまむ手も止まらない。あまりに何気ない様子に、脱力してサクヤは壁へもたれた。
「……おかあさん、災禍が起きたのよ」
 言うまでもなくわかっているはずだ。思い返せば、5年前もユマリはこんな感じだった。
「うん。――あ」
 昼メロは、緊急ニュースに切り替わった。ここで初めて、ユマリはふーっとため息をついた。
「いいところだったのに。……あら」
 サクヤの膝を見て、眉を寄せる。
「血が出ちゃってるじゃない。家の中を走っちゃダメって教えたでしょ。消毒しなきゃ」
 マイペースに乗せられて思わずサクヤはうなずきかけたが、はっと我に返った。
「それどころじゃなくて! おかあさんは避難しなきゃ。地鳴りが近かったから、この辺りに邪神が出てくるかもしれない」
「そうねぇ、そろそろかもね」
「馬鹿いってないで早く支度して! 私は連邦本部に行くから」
「んー、サクヤ。私も連邦本部へ行く」
「え、なに言ってるの?」
 ユマリは立ち上がった。どこか遠くを見るような目。
 サクヤはそこに、普段の母と違うものを見つけて、次の言葉を待った。
 雷のような地鳴りが近くで鳴った。
 ユマリは中空からサクヤへ視線を移し、言った。
「今から私の妹に会いに行きます。サクヤ、あなたがこの災禍を治める――禍を直すのよ」


 3


 寝ているシリンを起こすのが、これほど難儀だとは思わなかった。
 なんとか目を覚まさせ、状況を説明して、服を着替えさせているうちに、災禍は始まってしまった。
「まずいぞ」
 上空を中心にして、どんどんと不気味な色合いの雲が広がっていく。災禍の中心部にいるらしい。シトゥリは境内に立って、上空を見つめた。
 黄泉の穢れは放射能のように、目に見えぬまま人の因果律を蝕む。ここに長く居るだけで危険なのだ。
「ご、ごめんなさい、私――」
 シリンが半泣きで神社から現れる。自分が邪神に力を与えていたと知って、責任を感じたようだ。
 しかし今はそれどころではない。
「本部へ向かいましょう。急いで!」
 シリンをせかして、神社を後にする。
 鳥居を越えて階段を下りていると、ふと後ろを振り返ったシリンが硬直した。
「シトゥリさん、あれ……!」
 指差すところは鳥居だ。
 そこにシャボン玉のような虹色の膜が張り詰めている。
「なんだ、あれ」
 シトゥリも呆然とそれを見つめた。
 膜は虹色の輝きを増しながら揺れて――突如破れた。
 膜を突き破って現れたのは、うなぎのような触手の束。それが木々に巻きつき、ぐっと引き寄せると、鳥居の間から空間を破って、邪神の本体が現れた。
「あ、あれは、なんで鳥居から!?」
 シトゥリは絶句する。そもそも黄泉と地上は特異点と言う穴を入り口にし、黄泉比良坂と言う通路でしか繋がっていないはずなのだ。
「鳥居は、神と人間の世界を隔てる門だと聞いたことがあります。八十禍津日神がここにいたなら、すでにあの神社は黄泉と化していたのかもしれません」
 シリンが早口で的確な説明を加える。
 うなずこうとしたシトゥリは、触手がこちらへ迫ってくるのを見て、叫んだ。
「とにかく逃げましょう!」
 シリンの手を引いて、階段を駆け下りる。
 幸い邪神は降臨したばかりで、動きが遅いようだった。運動神経の悪いシリンをつれても、十分逃げ切れそうである。
 階段を降りきって、本部への道を行こうとした時、上空が翳った。
 見上げる間もなく、前方に巨大な陰が降ってくる。
 民家のブロック塀をぶち壊し、街路樹をなぎ倒して行く手を阻んだのは、鳥居から出てきた邪神だった。
「くっ」
 前方を塞ぐ威容を目の当たりにし、じわりと汗が吹き出る。
 邪神の姿は全く生物的な様相を持っていない。人型に近かったり、幾何学的だったり、千差万別だが、地上で活動する際には拠り代に影響されると言う。
 つまり物理的要素の低い神が、物理法則の支配する地上でうまく活動するには、何か物質に宿るのが効率的らしいのだ。
 御神体と呼ばれるそれらは、ある時は剣であったり鏡であったりするが、基本的にはなんでもいい。
 この邪神は、昆虫を御神体に選んだようだった。
 前衛作家に造形させたような天道虫が、触手だらけの口を開いて、気味の悪い音を立てている。
 背を向けたらその瞬間に殺されそうな気がした。
 脂汗を浮かべたまま、巨大な異形と対峙する。
 邪神の口が一際大きく開いた瞬間――。
 パン、パン、パン
 後方で火薬の破裂音が響き、邪神が醜悪な顔を仰け反らせた。
 振り返ると、青いスポーツカーの窓から身を乗り出したサングラスの美女が、拳銃を発射している。
 シトゥリは思わず叫んだ。
「キリエさん!」
 ぎゃぎゃぎゃ、と派手なブレーキ音を上げて、スポーツカーはシトゥリたちの前で止まった。運転席のキリエは、早く乗るよう手でジェスチャーする。
 二人は慌ててドアを開け、狭い車内へ乗り込んだ。
「説明はあとね」
 そう釘を刺すと、キリエはアクセルをベタ踏みにして、そのまま邪神の方へ突っ込んでいく。
「きゃあっ!」
 シリンの悲鳴が響く。車は、邪神の足をぎりぎりでかわし、走り抜けた。
 車を潰そうとした触手が何本もすぐ近くの地面へ穴を開ける。
 それも一瞬、爆音を上げたエンジンはあっという間に邪神から遠ざかった。
 バックミラーで後ろを確認し、キリエはサングラスをはずした。
「とろいもんね。二人とも大丈夫だった?」
「な、なんとか……」
 シトゥリは助手席にひっくり返ったような格好で乗り込んでいる。シリンは後部座席で逆さまだ。
「んじゃ、時間ないから手短に説明するわ。本日14時ジャスト、災禍発生。どの特異点が発生源かは特定できず。連邦軍は本部召集の命令が下った後、情報が混乱して現在の状況は把握できない」
「とにかく、本部ですね」
 シリンが逆さまで言った。
「そうなんだけど、まだタケミカヅチはメンテナンス中のはずよ。鑑には乗れないわ」
「僕らは白兵戦か……」
 地上に出てきた邪神を倒すには、やはり白兵戦しかない。鑑の破壊力では周囲へ被害を及ぼしてしまう。戦車や戦闘機も活躍するが、邪神の操る言霊の影響を受けにくい人間が、もっとも優秀な戦闘ユニットと言うことになる。
 災禍の発生源を特定し、その周辺の宙域を征圧する艦と、地上に現れた邪神を相当する人間の二つが効果を現して、初めて災禍を収めることができるのだ。
「さーついたわよ」
 そびえ立つ連邦本部ビルの頂にも、紫色の雲が広がっている。むしろそこに中心が移ってしまっているようだ。普段は車の乗り込めない敷地の中にまで車を入れ、キリエは人ごみでごった返す正面玄関の前でブレーキを踏んだ。
「キリエ!」
 本部には右往左往する人々が押しかけていた。その中から、キリエを呼ぶ声がして、女性が一人駆け寄ってくる。
「セーコじゃない。ちょうどよかった、状況を教えて」
 セーコと呼ばれた女性は、キリエが車内から出るのもまたず、言った。
「あなたも知らないのね。邪神が連邦本部に侵入したらしいの! ここは危険よ」
「――本当?」
 キリエの視線が途端に鋭くなる。
 本部に侵入されたことは――歴史を振り返っても、皆無のはずだ。本部は強力な言霊によって結界が張られている。侵入がありえないことではないとしても、この短時間では不可能だ。
「ええ。私がドッグでタケミカヅチの整備をしていると、ものすごい地鳴りがして――怖くなってみんな逃げたんだけど、正解だったわ。ドッグは黄泉に飲まれたらしいの」
「え、ってことは!?」
「タケミカヅチ、発進どころじゃないんですね……」
 シトゥリの後を、シリンが続けた。セーコがうなずく。
「ねえキリエ、もしかしてと思うんだけど」
「最悪の状況しか考えられないわよ。――地下ドッグ下の、0番特異点の封印が破れた。災禍の原因はそこだわ」
「0番?」
 シトゥリは首をかしげる。キリエが難しい顔のまま、答えた。
「これは機密情報なんだけどね。実は連邦本部の地下には、特異点が存在するの。もちろん黄泉比良坂で黄泉と繋がってるわ。緊急の出動が必要なとき、ドッグと直結したそこから出動できるようにね。もちろん最高度の封印を施されて、黄泉側からでは絶対に開かないようになってるんだけど、それが破られたのよ」
「おそらく地上側から何者かが操作したはず。とにかくここは離れて。いずれ地下から邪神が溢れてくる」
 セーコが補足した。
 キリエはうなずいて、もう少し詳しい情報を聞き出そうと話始めた。
シトゥリはふと、混乱の度合いをます玄関前を、見知った人影が横切ったような気がした。
「あれ、今のサクヤさんじゃないですか?」
 気のせいかと思ったが、シリンもそう見えたと言った。サクヤはこちらに気づかなかったのだろう。建物の中は危険だ。探してきたほうがよさそうだ。
「ちょっと行ってきます」
 シリンにそう告げ、シトゥリは本部の中へ向かった。
 玄関ホールの広い吹き抜けを過ぎ、中心の廊下へ回ってみても、サクヤと思しき姿は見えない。
 行くとすれば――エレベーター前か。
 シトゥリは玄関から一番近いエレベーターへ向かった。
「おい君、ここから先は危ないぞ」
 エレベーター近くで、本部の職員に止められる。
「あの、今サクヤ=シノ少佐がここを通りませんでしたか?」
「ああ、彼女を追ってきたのか。おれが見たときには、エレベーターへ乗り込むところだったよ。……おかしいんだが」
 そう言って男は眉をしかめた。
「なにがおかしいんです?」
「いや、ちょっと来てみてくれ」
 男はエレベーターの前に立ち、スイッチを押してみる。反応はなかった。
 それもそうだろう。ランプが点灯しておらず、エレベーターは起動状態でないことを示している。
「本部職員の避難が終わってから、邪神の通路となるのを防ぐため、エレベーターの電源は落として隔壁封鎖されているはずなんだ。なぜ、動いたんだろう」
 シトゥリは青くなった。それはつまり、サクヤは状況もわからないまま封鎖された本部の中へ入ったと言うことではないか。
「サ――サクヤさんは一人で、どこへ、何階へ行ったんです?」
 思わず普段の呼び名が出る。男は険しい表情を深めた。
「最上階だ。それに一人じゃないぞ。もう一人私服の女性――顔がそっくりだったから、お姉さんかな。そんな人を連れていた。こんなときに一般人を――」
「ユマリさんだ。どうして……」
 考えをめぐらせても、いったん焦り始めた頭はぜんぜん集中できない。
 今はとにかく動くことだ。
「ありがとうございます!」
 一礼すると、シトゥリは玄関前へと駆け戻った。


 4


「予定外だな……」
 ディラックは苦々しく呟きながら、本部の玄関へ向かっていた。
 まさか本部が直接襲われるとは思わなかった。
 地下ドッグはすでに制圧され、タケミカヅチの行方もわからない。
「これも神託のうちなのか……ユキ」
 妖艶な室長の顔が浮かぶ。すべてを見透かしたが故になにも語らないユキは、こんなとき腹立たしい。
「ディラック!」
 呼ばれて、ディラックは思考から現実に戻った。玄関ホールでシリンが手を振っている。
「来ていたのか」
「はい。ディラックもここに?」
「おれは別件でな。タイミングよくこのざまだ。お前、足はどうした?」
 足とは、交通手段の意味だ。シリンがちらりと玄関の外に目をやって、ディラックは得心した。長身の銀髪女が人ごみの中で目立っている。トウキの妹――キリエだ。
「あと数十分で臨時本部が設営される。それまで各自避難だそうだ。ここを離れるぞ」
「はい。あ、キリエさん!」
 外に出ると、キリエがこちらに気づいた。ディラックの姿を見て驚いた顔をしている。ディラックはシリンの肩に手を置いて言った。
「こいつはおれが預かっておく。お前はどうするんだ?」
「え、あたしは――そう、シトゥリくん。あの子を送っていくわ」
 少し、しどろもどろだ。キリエとは任務を共にしたとは言え、親しいほど話していない。ディラックの片目を見た者は、なぜかたいてい気圧される。
「わかった。気をつけろよ――と言いたいが、あのトウキより強かったそうだな。余計なお世話になるか」
 そう言って背を向ける。キリエは何か言いたげに声を上げた。
「あの」
「――なんだ?」
「あの……トウキの話を、今度」
「……いいだろう。おれになら、なぜヤツがそんな運命を背負ったのか、話せるかもしれないな」
 そう言って、ディラックは玄関前を離れた。
 キリエは死者を乗り越えようとしている。ディラックも、多くの屍を越えてきた。
 トウキの顔がしきりに脳裏へちらついた。
 あいつはどうだったんだ。死の定めを知りつつ、どうして平然と受け入れられた。
 ディラックにはできそうに無い。そんな運命など、抗って乗り越えようとするだろう。
「……どうしたんです?」
 シリンに言われて、我に返った。
 いつのまにか人ごみを離れ、本部の裏側にたどり着いている。考え事をすると、周りが見えなくなるのは悪い癖だ。
「いや」
 短く言って、車のキーを取り出した。裏側は駐車スペースになっている。キーをもてあそびながら、どこに駐車したかをしばし思い出す。
「ディラック……私は、死んだんでしょ」
 駐車場の冷たい床に、シリンの言葉が反射した。振り返ると、チェックスカートの少女は少し後ろに立ち尽くしていた。
「お前――」
 2年前の事件。
 重傷を負ったとだけ告げ、ディラックは真相を隠していた。
「なぜ」
「しばらく前から……心臓が動いていないんです。私の魂は、この体が生きていないと気づいてしまった。もう……」
 シリンは片腕を地面と平行に差し上げた。ブラウスをまくると、その二の腕の肉が、ぽろぽろと剥がれ落ちている。
「もう持たないんです」
「なぜ……おれに言わなかった。いや、言わなかったのは、おれのほうなのか」
「ディラック、私はとんでもないことをしてしまったんです。アシリアさんならなんとかしてくれるかもしれないと頼ったんですが、彼女は偽者で、実は――」
「言うな。わかった」
 この災禍の原因は、そこにあったのだ。0番特異点の封印を開放したのは、おそらく――。
 ディラックは歩み寄り、シリンの腕を手に取った。腐ったような腕の感触。
 神殺しの力――スサノオの力。
 少しでも足しになるかもしれない。
 あらゆるものを破壊すると同時に、あらゆるものを再生しうる霊力。
「ぐっ……!」
 手の平から淡い光がシリンへ流れたと同時に、ディラックの心臓に激痛が走った。
 胸を押さえて前かがみになる。
「おれの身体も――限界が近いのか。くそ」
「ディラック。私はいいんです。あなたはこの災禍を戦い抜いて」
「いいわけあるか。まだ方法はある」
 ユキだ。天照の現人神と言われるあいつになら、シリンの身体をなんとかするくらい造作もないはずだ。
 腕を握ったまま、シリンの顔を見つめる。
 制服を着ていないと、どこにでもいる女子高生のようだ。過酷な運命を背負わせてしまった。いっそあの時――。
 いや。トウキのように、運命に従うだけでいることなど、出来そうにない。抗えるなら死ですらも抗ってみせる。
「おれは死なない……と言っていたな。その言葉、信じてみよう。シリン、本部に戻るぞ」
「え?」
「本部の最上階――」
 その瞬間、敵襲を知らせるサイレンが、高らかと鳴り響いた。
 ついに本部の地下から、黄泉の軍勢が現れたのだ。
 悪化する状況に、ディラックはにやりとした笑みで答えた。
「そこに、この世でもっとも神に近いお方がいらっしゃる。今は彼女を頼るしかない」


 5


 連邦本部――広大な地下ドッグ。
 普段は出撃前の鑑が停泊したり、メンテナンスを受けたり、何かと騒がしいこの場所も、今は闇一色に塗りつぶされてしまった。
 ドッグに架けられた桟橋の上から、ボコボコと溶岩のように泡を吹く闇を見下ろし、クラは呟いた。
「トウキ……あんたも、黄泉の闇の中に居るの」
 音はすべて、粘着質な闇が吸い込んでしまうかのように、呟きは反響もしない。
 赤いポニーテールをクラは無意識に撫でている。
「私は死なない。みんな、死に何を期待してるの」
「……我々が期待するのは、償いだ。クラティナ=レフィル。邪神の巫女アシリアの逃亡幇助――ひいてはこの災禍の原因を作った償いをしてもらう」
 桟橋の両端――廊下の奥から、数人の男が現れる。手には拳銃を提げ、全身を装甲服とガスマスクで覆っていた。
 桟橋の上でクラを挟み、男たちは拳銃をポイントする。
 クラはふっと笑う。視線はいまだに下の黄泉へ向けられている。
「気づいてないのね。封印を解いたのは、アシリア様の姿を模した八十禍津日神。ディラック=ルーデンス少佐が先の任務でそれに遭遇してるわ」
「そんなことは問題ではない。巫女が封印を解き、監視下に置かれていた彼女を逃亡させたのがお前だと言うことが問題なのだ。さあ、巫女の居場所を吐いてもらおう」
 ガスマスク越しのくぐもった詰問に、クラは肩を震わせて可笑しそうに笑った。
「くっくく……。なんて陳腐なセリフ吐くのかしら。アシリア様はすぐ側にいる。いつも――」
 そこではじめて、クラは桟橋の手すりから身を離し、詰問者の方へ向き直った。
 見開いたまなざしが男を射すくめる。                                                                                                                                                                                                      
 桟橋は徐々に闇を増した。黄泉が迫っている。
 詰問する男の声に、汗が混じった。
「――時間がない、多少痛めつけても吐かせるぞ」
 男たちの包囲が、じわりと縮まった。
 無数の手が、クラを取り押さえようと伸びる――。
 その瞬間、バチバチと音を立てて、金色の膜が男たちをはじいた。
「なにっ!?」
 羽が舞い降りるように、一人の少女が中空から現れた。
 クラの隣に降り立つのは、白いワンピースをまとった、邪神の巫女。
 金色の輝きに淡く包まれ、無垢な少女のように、冷徹な女神のように、桟橋へ転がった男たちを見据える。
「化け物め、現れたな。撃て! 二人とも殺せ!」
「止まれ」
 銃を向ける男たちの間を、金鈴の声が縫って流れた。
 死の弾を吐く銃口は、アシリアを、クラをポイントしたまま――ぴくりとも動かなくなる。
 呻くような声を、男の中の誰かがあげた。
「これは――言霊……」
「黄泉の力が溢れている。八十禍津日神がすぐ近くにいらっしゃる。災禍が深まるほど、わたくしの力も増していくことを――お忘れなく」
 アシリアが静かに告げた。
 クラは動けないでいる男たち睥睨して、言った。
「私はアシリア様とこの災禍を止めてみせる」
「災禍を止めるだと!? いくら巫女とは言え、たった二人で何が出来る!」
「確かにわたくしの力は微々たるもの。しかし本当に災禍を止める力を持つ者の助けになることくらいはできます。――いえ、わたくしが居ないと、八十禍津日神を止めることはできない」
「何も知らず、知ろうともせず、知っても知らず。宇宙から降ってきた少女のことを隠蔽した者が居るわ。八十禍津日神を封じることが出来るのは、あの子だけなのに。災禍の原因を作ったのは、連邦本部の上層部に居る可能性がある。欺瞞よ。ねえ、元諜報部で現特種エージェントのあなたなら、何か知ってると思うんだけど」
「――くっ……!」
 詰問をしていた男の声には動揺が見える。
 闇は濃さを増してきて、まるで黄昏時のように照明の光を飲み込んでいる。
 オオオオオ、と風の鳴くような唸りが、地下深くから聞こえる。
「黄泉が歓喜の声を……」
 アシリアが目を閉じた。クラは表情をきつくする。
「さあ! わざわざこんな場所までおびき出してあげたのよ。ここで黄泉に飲まれるか、素直に吐くか、どちらかを選びなさい!」
 詰問者は逆転した。男は、不自然な格好で銃を伸ばしたまま、疲れたように言った。
「わかった。おれもおかしいとは思っていたよ。お前の言う上層部の話は知らないが、おれたちにアシリア暗殺命令を出したのは、ライア中将だ。あの人が暗躍している」
「そう。ありがとう。――アシリア様」
「ええ。彼を止めましょう」
 その瞬間、男たちの呪縛が解かれた。噴出す汗がガスマスクの内側を濡らした。
 その恐怖を吹き飛ばすように、男は叫んだ。
「馬鹿め。我々が任務に忠実であることを忘れたか、クラティナ! 死ね!」
 男たちの銃が火を噴いた。
 冷ややかな表情を深め、クラは呟く。
「馬鹿? どっちがよ」
 銃撃の音は黄泉の闇が漆黒へ塗り込め――弾丸のみが一直線にクラの赤い髪へ、アシリアの金髪へ向かって飛んでいく。
 しかし一直線の弾道は二人の手前で曲がった。直が曲に変換されたように、弾は狂ったベクトル運動を開始し、あらぬところへ飛び去っていく。
「どうした!? くそっ」
「禍の意味をご存知でしょうか。禍とはつまり曲がる。まっすぐでないことを示すのです。わたくしの神は八十禍津日神。あらゆるものは曲がり歪む。あなた方の運命も……」
 アシリアが一歩進んだ。
 突如、桟橋の下から津波のように闇が質量を持って盛り上がる。男たちに恐怖の感情が走り渡った。
「やめろ、やめてくれ!」
「絶望と恐怖は至福。断末魔は闇への産声……」
 どば、と黒い波が桟橋を飲み込んだ。音も空気の動きも感じられない、静寂の津波。
 しかしその波が桟橋を流れ去った後には、金色の輝きに護られたアシリアとクラ――そしてクラに胸倉を掴まれている男以外、何も残っていなかった。
「生きながら黄泉に飲まれた者には、悲惨な運命が待ち受けているそうね。あなたもそうなりたいかしら」
 クラの瞳は冷たく冴えている。掴まれた男は、返事も出来ないほど震えていた。胸倉を揺すって語気を強める。
「さあ、ライア中将の居所を吐きなさい! 誤魔化したらどうなるか――」
「……最上階だ」
「最上階? ここの?」
「そうだ。最上階に向かうと、そう言っていたのを聞いた」
「クラティナ、離れて!」
 突如、アシリアが二人の間に割って入った。その理由を瞬時に理解したクラは、男を突き放し、桟橋へ身を伏せる。
 その瞬間、男の身体は爆発した。爆風と火柱が立ち上り、闇の黒さを際立たせる。
 爆発の衝撃は、アシリアの目前で防がれていた。吹き飛んだ桟橋の破片も、男の残骸も、焼け焦げた煤も、その美しい体には微塵も触れることなく、自ら闇の中へ踊っていった。
「アシリア様」
「大丈夫です。それより桟橋が崩れます。急ぎましょう」
「はい」
 立ち上がったクラは、差し伸べられたアシリアの手を握る。
 ふっと、二人の足が宙へ浮かんだ。
 金色の繭に包まれ、二人はドッグの上空へゆっくりと浮上していく。
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